東京都市美術館で開催されている展覧会に行ってきました。ちなみに平日でも上野公園はとても混んでいました。来るたびに毎回思うのですが、ここまでたくさんの美術館・博物館が密集している場所は国内には他にないんじゃないでしょうか。
さてそんなこんなですが、とにかく僕が美術品を観ている時に思うことは、「なぜ自分は今これを観ているのだろう?」ということです。わざわざ美術館にまで足を運んでおいてなんですが、結論から言うとよくわからないのです。今のところ一番しっくりきている理由は、「お気に入りが見つかるかもしれないから」です。たとえば小さい頃海で遊んでいる時に綺麗な貝殻を見つけては喜んでいたのと同じ感覚です。ただ違いがあるとすれば、貝殻は人間が関与して作られたものではないですが、美術品はそうである、ということです。ようするに美術品は誰かが何らかの意志を持って作り出したものです。そしてそこに意志があるのなら、もしかしたらそれを言語化して理解することができるのではないか、と思うのです。
しかし美術品を観ているとさらに思うことが、これらを作成したアーティストたちは教育で育成できるものなんだろうか、ということです。ちなみにこれが今回の主題です。上述の話はぶっちゃけあまり関係ありません。
さて美術教育ですが、そもそもその教育によって育成されるべきプロのアーティストとは一体何でしょうか?結局それは「美術品を作って飯を喰う人」ではありません。なぜならアートとは外部の(例えば社会の)ニーズに応えるために創作されるものではありません。もしそうならそれは職業であって、アートとは別物です。例えばデザインなどはそのような職業的な意味を含む言葉です。アートとは、自分が良いと思うものを人と比べずに追求する生き方、だと思います。もしこのようにアートという言葉を定義すると、そもそもプロのアーティストという言葉が相反する言葉同士の組み合わせであることに気が付きます。なぜならプロという言葉はふつう職業的な意味合いを強く持つからです。
よってアートが職業的に成立するためには、運が必要だということになります。なぜかというと、職業のトレンド(社会のニーズ)は数十年ごとに移り変わるものだからです。もし偶然にも社会のニーズがあり、偶然にも自分の創作物がそのニーズとマッチしていた場合のみ、ピカソやダリのように社会的に成功したアーティストとなれるのでしょう。
ということは教育においては、そのような不確定な要素(社会のニーズ)に依存するべきではない、ということになります。つまり生活の基盤を成立させるための現実的な活動とアートを分けて考え、両立するための方法を教えないければいけないということです。
実はこの考え方は美術関係のみに適用されるようなものではなく、より普遍的な人間の生き方として考慮されるべきものだと思います。
以上ふと考えたことでした。
作者:兼子仁志
編集部